刺身が魚料理の王者だとすれば、
焼き魚は長年の覇者かもしれない。
なぜなら焼き魚は、特別な料理ではなく、
日常の料理だからだ。
刺身は祝いの席に並ぶ。
けれど焼き魚は、朝ごはんの食卓に並ぶ。
鮭。
鯖。
秋刀魚。
鯵。
日本人の多くにとって、魚料理の記憶は、まず焼き魚から始まる。
魚を焼くという行為は、とても古い。
縄文時代の遺跡からは、焼かれた魚の骨が見つかっている。
火と魚があれば料理になる。
魚を焼くことは、おそらく人間が最初に覚えた魚料理の一つだろう。
江戸の町では、魚は炭火で焼かれていた。
七輪に網を置き、魚をそのまま焼く。
塩を振り、皮が弾け、脂が落ち、煙が立つ。
焼き魚は、火の料理だ。
やがて都市の家庭には魚焼きグリルが現れる。
ガスコンロの下にある、あの引き出しのような箱だ。
1960年代から70年代にかけて、日本の家庭に広く普及したとされている。
世界を見渡しても、家庭に魚焼き専用装置がある国はそれほど多くない。
焼き魚は、日本の食卓のインフラになった。
焼き魚の魅力は単純だ。
皮は香ばしく、
脂は熱で弾け、
身はふっくらとほどける。
味付けは塩だけでいい。
魚の旨味は火によって引き出される。
秋刀魚は、その象徴だろう。
細長い魚をそのまま焼く。
大根おろしを添え、醤油を少し落とす。
それだけで食卓は完成する。
秋になると多くの日本人が思い出す魚料理は、きっとこれだ。
しかし、ここで少し面白い話がある。
江戸時代、江戸の町に届く魚の多くは、
必ずしも完全な生魚ではなかった。
冷蔵技術がない時代、魚は運ばれる途中で
塩を振ったり、軽く干したりといった
下処理がされることが多かったと考えられている。
つまり江戸の魚は、
「軽く加工された魚」であることも多かった。
そして、その魚に一番合う料理が焼き魚だった。
塩をした魚は、焼くと一番美味しい。
だから焼き魚は、美味しいだけでなく
都市生活にとても合理的な料理だった。
焼き魚は、あまりに完成された料理なのかもしれない。
魚を焼けば美味しい。
それだけで成立する。
だからこそ、魚料理を思い浮かべるとき、
焼き魚は自然に思い出される。
では、揚げる魚はどうだろう。
魚を揚げる料理は確かに存在する。
フグの唐揚げ。
メヒカリの唐揚げ。
カサゴの丸揚げ。
サバの竜田揚げ。
しかし不思議なことに、焼き魚ほど
日常の料理として思い浮かばれることは少ない。
焼き魚は長年の覇者だった。
だからこそ魚揚げは、その影にいたのかもしれない。
それでも、揚げる魚には
焼き魚とは違う魅力がある。
その話は、また別の記事で。